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以前にこのコラムでご紹介した通り、日本の鉄道の歴史は古くて、1872(明治5)年には新橋〜横浜間が開通しました。そして「車内販売」についてですが、こちらも歴史を積み重ねています。 なので、まずはその「食堂車」の歴史をひもといてみましょう。
日本で最初の食堂車、それは山陽鉄道会社線の兵庫〜徳島間の急行列車から始まりました。 そして1901(明治34)年には急行列車が続々と運転されるようになって、新橋〜国府津間、沼津〜馬場(現在の膳所)間、京都〜神戸間の4つの区間で食堂車が連結されることになりました! その4区間の食堂車を運営していたのは、格調高いホテルや、フランス料理で有名なあの精養軒でした!その後、運営会社の数も年を重ねるにつれて増し、ついには6社にまで増えていきます。 すると、ここでスタッフの体制や、サービスの内容、制服なども一本化しよう、という動きが出てきて、1938(昭和13)年に、6社の業務を受け継いで、日本食堂株式会社が発足します。 さて、この当時のメニューってどんなものだったのでしょう? 精養軒からスタートしたということもあり、メニューの中心は「洋食」でした。 それではハイカラな当時のメニューの一例を見てみましょう!
です。
…いやあ、豪華ですね。ダブルステーキってどんなものだったんでしょうね? 夜のメニューなんかは魚フライと肉料理と両方あって、かなりボリュームたっぷり。この夜のメニューは150銭でした。 どんな料理かと言うと、目玉焼きをライスの上に乗せただけ。まさに、「まかない飯」という感じですが、これは日本各地でご当地バージョンがあったようですよ! 苦難の時代を乗り越えて、ついに「車内販売」登場!こうして明治に始まり大正、昭和と順調に成長してきた食堂車ですが、ついに苦難の時代が訪れます…。 そう、戦争です…。 戦争中は、すべての物資が国の統制におかれました。そのとき食堂車の運営は大打撃を受けてしまいました。 でも、当時のスタッフの方々はあきらめませんでした! この逆境のなかで生まれたのが、
この鉄道パン、配給を受けた小麦だけでは生地がうまくできず、なんと乾燥した野菜やミカンの皮、柿の皮、桑の葉っぱ、魚粉などをまぜて作ったものだったのですが、大ヒットしたそうです。 ……そして、この「鉄道パン」は、列車のなかで売られました。 そうです! 食堂車を除くと、これが日本の「車内販売」の第一号なんです! 苦難の時代でも、鉄道を利用する人たちにサービスし続けた、当時のスタッフさんたちに頭が下がりますね。 さて、なんとか戦争を乗り切ると、焼け野原の日本も経済復興をしはじめます。
このときは上野〜青森、東京〜大阪、東京〜鹿児島、函館〜釧路など20本の列車での販売だけだったのですが、既に商品のラインナップは豊富になってきています。 このころから、車内で駅弁を食べる風景が、日本中の列車で見られるようになっていきます。そして昭和30年代以降、ドンドン国内が明るくなってくると、ここで鉄道を盛り上げるビッグイベントが二つやってきます! 一つは1964(昭和39)年の東京オリンピック、もう一つは1969(昭和44)年の大阪万博です。 こうして列車の長旅には、駅弁を食べるシーンが定着しつつも、時代の流れとともに少しずつ状況は変化していきます。新幹線などの移動時間は短縮され、食堂車のニーズが減ったり、車内販売を待たなくとも、車外でお弁当が買えるようになったり、と。 でも、旅の車内で食べるごはんは、なんとも言えない魅力があると思いませんか? ちなみに、おもしろいことに、「電車が動き始めてから駅弁のフタをあける人が多い!」という法則があるそうです。そういえば、発車前はガマンして、ゴトゴト動き出して、車窓の景色が眺められるようになってから食べるのがワクワクするんですよね。つまり、旅人はみんな知らず知らず、お弁当を非日常のイベントとして演出してるんですね。 今、駅弁のブームを再び起こすべく、たくさんのアイディアが加えられています。たとえば、ご当地の限定弁当や、東京をテーマにしたお弁当。 もちろん、実際にワゴンを押しているアテンダント(販売員)のみなさんも一人一人が、寒い日ならあたたかい飲み物を多めにワゴンに積んだり、家族連れが多い日なら子供向けのお菓子を多めにしたりと、ちょっとした工夫を重ねています。こうして細かいところにも、気を配ってお客さまにご満足いただけるサービスをしようという姿勢には、本当に頭が下がりますね。 ということで、「アテンダント(販売員)さんってどんな仕事なの?」って気になりますね。来週は、プロのアテンダントさんが誕生するまでの研修風景をレポしたいと思います。あの笑顔の秘密は!? 参考資料:日本食堂社史編纂室「日本食堂60年史」
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